公務員個人の謝罪は必要ないのか?

 NPO法人子どものオンブズにいがた(以下、子どものオンブズ)が発足して10年になり、あらたな思いでスタートした2023年ですが、子どものオンブズにとっても忘れることのできない支援活動の結果となりました。

 それは元テクノスクール生が、在学中に元指導員から受けたいじめで2017年7月に自死した事件に関する支援の事案です。卒業後も苦しみつづけた青年が繰り返し元指導員に謝罪を求めたにもかかわらず、誠意のある対応を元指導員や県の関係者からしてもらえず、遺書で「あとは警察の方お願いします」とのダイイングメッセージを残して亡くなった事件です。

 この事件では真相を知りたい遺族の必死な調査活動で、遺族が求めた第三者委員会が設置され、県の当初の調査を覆す、元指導員による暴言、暴力等のハラスメントがあったという調査結果の報告が3月20日に出ました。これをうけ、6月5日には県庁で関係省庁の担当者が、遺族に正式に謝罪しました。

 ただ、遺族が求めた、元指導員個人の謝罪は行われず、ひたすら「組織」としての謝罪を強調し、遺族の怒りをかいました。翌々日に開かれた知事の定例記者会見では、元指導員個人が謝罪しないのは、「本人が認めていない」とのことでした。

 第三者委員会の報告に対して、その調査結果等を「組織」はもとより組織の個人も尊重する義務があるなかで、義務違反を平然と行っている元指導員に対し、違反を容認する「組織」に、遺族のみならず多くの県民が「おかしさ」と県政への不信感を抱いたのではないでしょうか。遺書で名指しで告発した元スクール生や遺族にとっては、元指導員の謝罪こそが、最も求めた誠意ある対応でしたから。

 ハラスメントと自殺との因果関係については、調査結果は踏み込んだ結論を出さなかったとはいえ、いじめの事実をなんとしても認めてほしいと願って、5年間も戦ってきた遺族にとっては、おおむね納得のいく調査結果ではなかったかと思いますが、残念ながら元指導員の謝罪なしの不誠実な対応が、調査結果を台無しにしてしまったといっても過言ではありません。

 一般社会の常識では到底考えられない対応なのですが、その背景に公務員個人の賠償責任を認めない「国家賠償法」の論理があるとしか考えられません。公務員個人が安心して職務を遂行するために、

損害を与えた場合でも、「国家賠償法」で公務員個人は損害賠償の責任を負わないで国や自治体が賠償責任を負い、公務員個人に対してはその責任に応じて「求償権」を行使できるというものです。

 今回の事件では、「文書訓告」という懲戒処分にあたらない軽微な処分が、その「求償権」にもとづく処分ということになりました。あまりにも軽い処分です。

 ところで、この「国家賠償法」の論理については、法律の専門家の間でも、遺族等の被害者との修復的解決の観点から、場合によっては公務員個人の賠償責任も認められるとの見解が出ています。今

回の事件の場合、金銭の賠償責任ではなく、「謝罪」を求めているご遺族の心情を考えると、県はなんとしても元指導員に謝罪をさせる必要があったのではないでしょうか。説得できなかった県の対応が残念でなりません。

 結局、遺族は遺書で訴えたいじめの事実が認められたことや、テクノスクールにおける再発防止のための相談窓口の設置などの改善策が策定されたことで、無念さをかかえながらも、区切りをつけることになりました(新潟日報 2023年7月23日)。

 子どものオンブズは、2018年から5年間にわたって遺族の支援を続けてまいりましたが、これにより、その支援も終了することになりました。元テクノスクール生のご冥福とご遺族の今後のご健勝を願ってやみません。

(山本 馨)

繰り返される「不適切指導」

 昨年 12 月 13 日、新聞報道(新潟日報、2022 年 12 月 14 日)によれば、新潟市内の私立明訓中 学校で起きた、いじめ誤認訴訟の第1回口頭弁論が開催された。

いじめに加担していなかったにもかかわらず、加害者にされ、30分以上にわたって別室で担
任から追及された、当時中学2年生の受けた精神的苦痛に対する慰謝料請求の裁判である。

 2017 年3月の出来事であるが、それから5年が経過しての裁判である。当該の中学生は、すで に大学2年生になっている。冤罪にもかかわらず、それが判明した後も、謝罪することもなく、 翌日も「制止しなかったのは加害者同然」と「不適切指導」を続けた担任、学年主任の対応に深 く傷つけられた少年とその保護者の、学校側の対応に対する怒りと屈辱、無念さを晴らすための、 5年越しの訴訟とも思える。教師の「不適切指導」が与える、生徒の精神的苦痛の深さをあらた めて感じさせられる。

 学校側は、この訴えに対して、当時と同様、指導は「適切」であったと、全面から争うとのこ とである。教師の執拗な追及に対して、泣きながら否定していた生徒の苦痛を顧みることなく、 加害者でないことが判明した翌日も、謝罪することなく、厳しく指導した担任教師の対応が、ど のような観点から「適切」であったのか、全く理解しがたい。何を争うのか、今後の学校側の対 応が気になる。

 実は、この事件は、当時、保護者からの依頼で、私たち「子どものオンブズにいがた」が支援 を求められた事件でもある。保護者とともに、調整活動を行い、問題解決をはかる「子どものオ ンブズにいがた」が、保護者の依頼をうけて連名で学校側に話し合いを申し入れた。しかし、学 校側は私たちの話し合いへの参加を拒否し、保護者となら話し合うとの回答をしてきた。しかし、 その後も保護者から話し合いの要望が出されていたにもかかわらず、話し合いは一度も開かれて いない。

 報道はされていないが、1月16日に県庁記者クラブで、保護者と「指導死親の会」の共同代 表である大貫隆志さんによる記者会見が開催されている。そこでは、この事件の概要と問題性と ともに、「不適切指導」による生徒の人権侵害があとを絶たない現状が報告されている。と同時に、 その問題を訴えても誠実に対応しない学校側の問題性にも報道機関は注目していた。

 大貫隆志さんの息子さん(当時中学2年生)は、いまから 22 年前にお菓子を食べたことを1時 間半にわたって教師にとがめられ、その翌日に自死している。息子さんの死を無駄にしないため に、「指導死」という言葉をひろめて再発防止に取り組む活動を続けてきた方である。その方の同 席のもと開かれた記者会見の模様は、県内主要各社が参加して行われていたが、現在のところ詳 細を知ることができない。裁判が結審された際に報道されるにちがいないが、ぜひ、その時の報 道に注目してほしい。

 「不適切指導」の問題は、この事件だけでなく、新潟でもすでに 2012 年に県立高田高校3年 生が部活動の顧問からの指導後に自死した事件をめぐって問題になっている。この年は、大阪市 立(現府立)桜宮高校のバスケットボール部の男子生徒が、顧問からのたびかさなる暴言、体罰 を苦にして自死した年でもある。これを契機に、文部科学省も、体罰防止の取り組みを強化して、その後は体罰の発生件数も急減してきたのであるが、2020 年には、福岡市の私立博多高校で剣道 部の女子部員が顧問からの暴言、暴力を苦にして自死している。発生数は減少しても、依然とし てあとをたたないのが現実である。

 「不適切指導」というと、体罰が注目されがちであるが、部活だけでなく日常的な学校生活の
生徒指導でも繰り返されている。明訓中学の事件とほぼ同時期に発生した、福井県池田町の町立
池田中学2年生の男子生徒の自死事件では、宿題の未提出を執拗に叱責されたなど、日常的な副
担任の厳しい指導が自死の主因とされている。この事件は、稀なことであるが、調査委員会の報
告をうけて、教育長が謝罪している。

 体罰による自死の場合、事実確認が可能なので、学校側や教育委員会も事実が判明したうえで、 遺族への謝罪を行っているが、それ以外の日常的な生徒指導による自死の場合、学校側は指導の 「不適切さ」を率直に認めようとしない場合が多い。それがいっそう、遺族や被害生徒、その保 護者を苦しめることになる。

 大貫さんは、「学校の管理職が責任をもって指導死を防ごうという体制になっていない」(朝日 新聞、2022 年 11 月 21 日)と学校の管理体制の問題性を指摘している。明訓中学の事件もまさ にそのとおりで、校長が「不適切指導」をした教員を擁護している。一歩まちがえれば、大貫さ んの息子さんと同様に、屈辱のあまり自死しかねない状態であったにもかかわらずである。

 教師と生徒の関係性は、教え・教えられる一方的な関係である。そのため、生徒への共感・共 苦が欠落しかねない危うい関係でもある。他者のかかえる痛みや苦しみ、悲しみ、嬉しさに共感 する人権感覚を磨く以外に、危うい関係から抜け出す道はないといっても過言ではない。「不適切 指導」を防ぐためにさまざまな取り組みや研修が行われるようになっているが、まずは教師ひと りひとりが自身の人権感覚を磨くことが大事である。それができていれば、たとえ指導に行き過 ぎや過ちがあったとしても、被害生徒の心身の状況を感じとって、自ら指導を見直し、それを指 摘されたときに、誠意をもって対応(謝罪)して、傷ついた被害生徒やその保護者との関係を回 復することができるだろう。それを求めているのが、明訓中学事件の訴訟なのではないだろうか。

(山本 馨)

いじめの急増を検証する ーコロナの影響だけなのか ー

 文部科学省が 2021 年度の「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸問題に関する調査 結果」を先日(2022 年 10 月 27 日)、公表した。 

 それによると、いじめの認知件数は、前年度より 19.0%増加して 615,351 件(前年度 517,163 件) に急増し、不登校も大幅に増加している。 

 前年度(2020 年度)は、コロナによる一斉休校や感染防止対策の実施などによって、いじめの認 知件数は 15.6%減少し、517,163 件(2019 年度 612,496 件)と急減していた。 

 急増した理由について、文部科学省は次のようにまとめている。 

「令和3年度は新型コロナウイルス感染症の影響が続き、感染を予防しながらの生活となっ たが、部活動や学校行事などの様々な活動が徐々に再開されたことにより接触機会が増加する とともに、いじめ防止対策推進法におけるいじめの定義や いじめの積極的な認知に対する理解 が広がったことなどで、いじめの認知件数が増加した。」 

 ちなみに、急減した 2020 年度のいじめの認知件数に関しては、次のように指摘していた。 

 「令和 2 年度は新型コロナウイルス感染症の影響により,生活環境が変化し児童生徒の間の物 理的な距離が広がったこと, 日常の授業におけるグループ活動や,学校行事,部活動など様々な 活動が制限され,子供たちが直接対面してやり取りをする機会やきっかけが減少したこと,年度 当初に地域一斉休業があり夏季休業の短縮等が行われたものの例年より年間授業日数が少ない 学校もあったこと,新型コロナウイルス感染症拡大の影響による偏見や差別が起きないよう 学 校において正しい知識や理解を促したこと,これまで以上に児童生徒に目を配り指導・支援した こと等により,いじめの認知件数が減少したと考えられる。 生活環境や行動様式が大きく変化 し,発見できていないいじめがある可能性にも考慮し,引き続きいじめの早期発見, 積極的な認 知,早期対応に取り組んでいくことが重要である。」 

 いずれも、急減や急増の理由を、コロナの影響といじめの積極的な認知によるものとしているが、コロナの影響に関するとらえ方は、まるで正反対のとらえ方である。2020 年度はコロナで急減、 2021 年度は急増である。いじめの積極的認知は変わらない。 

 たしかに、同じコロナの影響といえども、一斉休校などの授業日数そのものの減少や学校行事、 部活動などの大幅な制限は 2020 年度だけなので、この急減、急増を統一的に理解するには、コロナの感染対策の強弱とみていい。強力な感染対策のときは、いじめが減少し、感染対策が緩む と、いじめが増加する。コロナが収束して、感染対策が必要なくなったときを考えるとぞっとす る。 

 これをちがった角度からみると、学校が「普通」に開いている期間の問題ともいえる。タブレットによるオンライン学習の広がりもあるが、不登校の急増との関連はあるとはいえ、基本的にはいじめの急減、急増と関連しているとは思えない。

 学校が「普通」に開いている期間そのものが急減、急増と深くかかわっていると考えると、いじめの問題の深刻さが浮かび上がってくる。年々、少子化が進行し、子どもの数が減っていることも考えると、一段と深刻である。

 運動会や宿泊体験学習、修学旅行などが開催され、グループ活動や部活動なども「普通」に行われる学校では、いじめは減少しないことになる。集団活動によるストレスや、子どもどうしのぶつかり合いが避けられないからである。

 いじめの増加をどう食い止めるか。難しい課題であるが、いじめの背景に何があるかをつきとめながら、その構造にくさびをうちこむ取り組みが必要のように思える。

 その点にかかわるポイントについて2点だけ指摘しておきたい。 

 1点目は、個性化が進行する子どもの世界で、他者への寛容さが失われてきていることである。 多様性の時代だといいながら、大人も子どもも多様性をみとめようとしない現実がある。 

 それは、あるべき姿の画一的なおしつけが多いからである。学校の世界も同様である。学校での 行動のきまりは多く、きまりのしばりが強いと、ストレスも増すし、決まりを理由に子どもどう しのぶつかり合いも起きる。 

 2点目は、土井隆義「つながりを煽られる子どもたち」(岩波ブックレット)で指摘されている、 友だちとのつながり依存の問題である。つながっていないと不安でたまらない子どもたちは少な くない。孤立への不安を解消するために、仲間に同調して「シカト」に走ったり、友だちの誹謗 中傷を仲間と一緒に行ってしまう。つながり依存の問題は、個性化と深くかかわっている。多様 な個性のひろがりのなかで、自分の個性を確認、肯定するためには友だちとのつながりが欠かせ ない。子どもひとりひとりが「キャラ化」する現象もそこから生じる。仲間とつながりながら、 自分の個性を固めるためには、ひとりひとりがちがった「キャラ」となる必要がある。悲惨なの は「いじる、いじられる」関係のなかで、いじられキャラになってしまった子どもである。子ど もの世界ではいじりはいじめとちがうという認識は少なくないが、「いじる、いじられる」関係が 一方的で固定されてしまった場合、いじめと変わらない。いじられキャラの子どもは、本音では 嫌がっている。 

 他者への寛容を取り戻し、孤立への不安を解消しながら、仲間とつながっていく方向を見出していくことが、いじめの克服、減少へと進んでいくことになるのではないであろうか。

 他者への寛容を取り戻すためにも、子どもたちの人権感覚の共有が不可欠である。子どもたちに届く、人権学習の積極的な展開を学校、教育委員会などの関係機関に強く要望したい。

 孤立への不安を解消しながら、仲間とつながっていくには、固定されたグループ、仲間だけでなく、多様なグループ、仲間とつながっている必要がある。つながりのチャンネルを増やすためにも、地域におけるさまざまな出会いを活性化し、そこに子どもたちがつながる政策の展開がほしい。

(山本馨)

*文部科学省「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸問題に関する調査結果」

https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1302902.htm